健康管理の重要性を認識してから飲酒をやめた。
いわゆる飲み会の回数はパンデミック以降めっきり自然減したが、それに輪をかけて飲み会を積極的にやらなくなった。2ヶ月に一回くらい飲むかどうか、それもお付き合いに依存する、くらいになった。
自宅で飲むこともあるが、まれである。
その「まれ」に含まれたのが、先日の釣行で釣ったイワナで骨酒を作ることだ。
その日(に至るあれこれも含む)の疲れを癒やすためのセレモニー
本来、岩魚の骨酒と言うとじっくりと数時間掛けてカリカリと弱火で焼きからしたものをいただくものだということは知っている。しかし、一日の釣りから帰ってきて物理的にそれをやる時間が足りない。
即席的なので本来よりも風味は劣るかもしれないが、それでも春一番のイベントが渓流の初物イワナで作る骨酒である。
今回はなんとか規定をクリアしたサイズのイワナがようやく釣れたのでこれを持ち帰った。

作り方は簡単
イワナのワタをとり、できるだけ時間を掛けて素焼きにする。可能な限り水分を蒸発させたい。
これが熱いうちに深皿に移し、熱燗を注ぐ。
数分おいてから圧迫して出汁を染み渡らせる。
飲む。
飲んだあとは、出し殻となったイワナも丸ごと食べてしまう。
骨身にしみこんだ日本酒の甘みと、イワナの旨味の相性が良い。
体が冬から春モードに切り替わり、シーズンインを実感
昔から年中行事は色々あったが、昔ほど正月に正月らしさが感じられなくなってきたように、四季の移り変わりや節目を感じにくい昨今。
こういう自分なりの節目を作ることも、リズムをつけて気分転換を図ることとその時々を楽しむうえで大事なことなんだなあと思う年頃になった。あと何回行けるのかな、と残りを意識してしまう。
緑黄色社会の曲に「恥ずかしいか青春は」という名作がある。その中で、限りあるから最高みたいなこと(そのまま書くと某団体とかが怖いからぼかしたが、本当にこのフレーズが好きだ)が最後のサビの手前に強調されている。ああ、そうだよなあ、終わっちまった青春は帰ってこないよなと思う気持ちと、いやいや、残りの人生だって本当は有意義で、いつか終わってしまうから今が尊いんだよな、と思う気持ちが同時にある。だから今を大事にしよう。熱中できている時間があればそれは本当に大事な時間なんだ。
渓流釣りにはシーズンと禁漁期があり、毎年川の季節の移り変わりのサイクルを一つの人生のように感じてしまうのは私だけじゃないと思う。鮎釣りの人もきっとそうだろう。
儚いし、限りあるし、いつかは行けなくなる。他の釣りももちろんそれは同じなんだが、エキサイティングさと儚さが常にユニゾンするような、そんな渓流を追いかけるのはただ魚が釣れればいいというのとはまた違う世界だと思う。もののあはれを一期一会の渓魚、二度と同じ日が来ない移り変わっていく渓流と山の自然、朽ちていく道中の廃村に感じる。
「ちょっと人間が通りますよ…」
人力経済の時代には山には縦横無尽に道があった?

近代化以前は山にもっとたくさんの人が住んでいて、燃料としての炭薪の需要から山は今よりもっと木が少なかったという。なんでこんな不便なところに集落があったの?と今の時代は思うかもしれないが、当時はむしろそこが資源の宝庫であり、そこに住むことで成り立つ産業があった、ということを数々の遺構が示している。
川沿いに崖を整地して石積を組み歩けるようにしていたようなところもよく見かける。近年の集中豪雨などで部分的に崩壊していたりするので、それと対比する結果になりよりそれが見えやすくなっていることさえある。そのラインだけ妙に水平なのだ。
山は中世の物流ネットワークである、という意見を先日SNSで見かけた。確かにそうなんだろうと思えるだけ、渓流から少し離れたところに道らしきものがあったりする。それは今でも山菜採りや登山で使われているのだろうし獣にとっての幹線道路でもあるだろうが、数百年前などはここを伝って交易などをしていたのだろうか。他にも、植林と伐採を用意にするためにそうしたのであろう苔むした石積と整地された土地が多々ある。今の集落から遠く離れていても、これだけ手の込んだ遺構が残っていることは興味深い。
道路からかなり離れた場所で自然に埋もれた生活の痕跡をしばしば見るのも、なんとも味があってよい。
ともかく、そうした景色の断片にふれられるのも、元気に歩き回れる間に限られる。そんななんでもないようなものに何かしら感情が動かされるのも含めて、渓流釣りには侘び寂びの趣がある。今年も無事にスタートできてよかった。