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お魚に遊んでもらいました~のやましさ

魚釣りをするにあたって、食べない魚は丁寧にリリースしましょう、とか、種の保全につとめましょう、とかはよくわかる。むやみに殺生をするべきではないし、リリースする魚へのダメージを極力減らす努力はしたほうがいいと思う。ただし、虐待を除いて、どの様なリリース方法をするとか、どこまでキープするかとか、そういうのは個々の判断とかポリシーとかの問題で、一律にこうすべきとか、こうでなければならないとかいうものではないように思う。

いずれにしてもリリースは手早く、無理なく、がポイントだろうと思う。

ところで、そのリリース方法も色々考えはあるし、個々の判断や裁量で取り組んでいけば良いと思うが、この辺についてすごく線引きをしたがる人が「魚に遊んでもらいました~」などとしたためているのを見ると、お前自己矛盾しとるやんけ、と思ってしまうのである。

「魚に遊んでもらいました」という言い回しをする人はあまり信用しない

実際、よくブログや店頭の釣行記でこの様な表現を見かける。お前は遊んでいるつもりでも魚は命のやり取りに負けてて、ラッキーで逃してもらってるだけやぞ、と思うのである。方や遊び半分、方や生存競争をかけた戦いである。

魚にしてみれば、呼吸のできない場所に引きずりあげられ、口に指を突っ込まれて、記念撮影されて、ほうほうの体でやっと解放されるのである。それに、魚にとって唯一と言っていい「道具」である口に多かれ少なかれダメージを負う。針外しが下手な釣人に釣られてしまったが最後、口の中はずたずたにされ、下手したらもう餌を食えなくなってしまったりもするだろう。

我々釣り人は、魚に対して遊び半分で攻撃しているという現実から逃げてはならないのではないか?そう思うと、「遊んでもらいました」という言い回しは、魚に対しての尊敬とかよりも先に自分の満足という印象が先に来てしまう。

まあ、私もこんなことやってるからね。残酷だよね

好敵手、そして背負う業と向き合おう

殺るか殺られるかとまでは言わないが、釣りは狩りだ。我々は魚を釣ると笑顔になる。それは単純に獲物を獲得したごくごく原始的な喜びも多分に含まれている。我々は本来食べるために獲物を獲得しなければならなかった。そういう記憶がDNAに、本能に刻み込まれているのだろう。

だからリリース前提の釣りも、どこかでやましさを持ちながら、結局人はそれをやめられないのだ。だからせめて、魚を大切にしよう、という発想になってくる。それはそれで良いことだと思う。

釣り人は業を背負っている。狩猟本能と実際に必要なカロリーのバランスが現代では崩壊していて、我々はいつでも好きなものを食べられる時代に生きているし、道具や技術の発達で比較的簡単に魚を釣ることができる。だから狩猟本能を満たす機会が乏しい。我々の狩猟本能は腹いっぱい食べても、それでもなお強い。だから、釣りが好きになればなるほど、カルマが増す。

どうやったって、釣りとは魚を騙してハリを貫通させ、呼吸できない場所に短時間とはいえ引きずり出しているという攻撃行動であることは変わらない。

とはいえ、色んな意味で限界はある。どっかで必要悪なのだ。だから、小さな子供を釣りに連れて行って、子供が「おさかなかわいそう」と言い始めたとき、大人は明快な答えを出せなかったりする。ちなみにそのへんは子供本人が考え、葛藤すればいいと思うし、それはとても良い教材になるだろう。

釣り歴が長くなると悲惨な魚をこの手で沢山生み出しているはず

魚や自然に対して負荷をかけているという自覚を持った上で、自分の狩猟本能を満たす喜びを正直に認めるくらいがガチ釣り人として自然な立ち位置なんじゃないかなと思う。魚を釣った経験が増えれば増えるほど、ブログやSNSに書けないような悲惨な死に方をさせてしまった魚が増えるはずだ。

あなただってたぶんそうだろう。目をくるくるさせて、エラからドクドクと血を流し、口を力なくパクパクさせながら絶命する外道をどれだけ見てきただろうか。気をつけていても、そればかりはどうしようもない。それを思うと、私は「遊んでもらった」とは、流石に言いにくいのである。

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