サイトアイコン P-squad Magazine(旧ドブログ

俺流好きを仕事にする方法 釣具業界にカムバック

ヘラブナの釣り場でおじさんたちの会話が水面に反射し聞こえてくる。
「定年再雇用で給料が・・・」
「有給が・・・」
サラリーマンのぼやきである。ひとまずは、企業戦士として身を粉にして働いている諸兄に心から敬意を込めてお疲れさまです、と言いたい。事実、私にはサラリーマンはできなかった。今は世捨て人か、あるいは自由人か。さおをふりながら、我が身の未来を案じている。

今回はちょっと個人的なエピソードも含めて今後の展望や学んだことの記録として一本記事をしたためたいと思う。

サラリーマンになる以外の進路選択が事実上存在しなかった

私は、大学で工業デザインを学んでいた。通わせてくれた親には感謝しているが、デザインの能力や感覚は同級生と比較して鈍く、教職課程をとっていてそっちがうまくいっていただけに最終的には首席だったが、自己肯定感も低くて実は結構つらい日々だった。いつも教官に「お前は勉強できるし歌もうまいけどデザイン下手だよな。進路変更したら?」と言われていた。結局、デザインのセンスを磨くのがしんどくて商品開発やブランディングを専門としている先生についてその辺りの分野を中心に学んだ。他の学生は総じてそういう分野が苦手だったので、プレゼンの説得力では確実にトップを取れると思ったからだ。

その後その先生の勤め先でのインターンシップに参加し、その分野で最先端のブランディングや製品デザインを学ぶ経験をした。たしかに手応えはあったが、私はデザイナーとしてよりは、ブランド戦略部門としての可能性を認めてもらえた。なんとか最終面接までこぎつければ、と思ってエントリーしたが、結局本気でそこに就職したい人たちの熱意と、自分のデザインへの情熱の弱さが原因と思われるが不採用だった。

同時にエントリーしていたのは、実は釣具メーカーである。

詳細は省くが、10倍くらいはあろうかという倍率だったが釣具メーカーの採用が決まり、当時不採用10連発が序の口、20連敗してから本番、といったような就活が普通にあった時代の中で幸運にも2社目で内定を勝ち取った。正直、1次面接のライバルはともかく、2次試験のライバルたちはかなり優秀な人が揃っていて、この人達集めて会社作っちゃったほうがいいんじゃないかと思ったのを覚えている。ていうか、その場で打ち解けた数名でそういう話をしていた。一日しか会わなかったけど、それだけお互いの持つ能力を尊敬できる素晴らしいライバルたちだった。当時はまだ関関同立クラスの四大卒がバッタバッタとややもすれば雑魚扱いされて切り捨てられる時代だったのだ。

たしかに私はそのメーカーで働いてみたいと強く思っていた。しかし、就職ということ自体にどこかピンとこないものがあった。親もサラリーマンだし、画一的な住宅街を見渡してもみんなそうだったし、それでも就職以外に稼ぐ選択肢が存在する、自分にできる、という発想はまったくなかった。

で、メーカーに入社するわけだが

希望通りの配属、関連部署からの支援、新人だけど結構予算とチャレンジング要素の大きい仕事を任され、そういう意味では恵まれていたはずだが、色々あって1年ももたずに辞めた。最後のほうは体がぶっ壊れてドブに近寄っては胃液を吐き出す日々。限界まで頑張ってみたが、連休の帰省で新幹線で名古屋駅に降り立った瞬間涙がボロボロ出てその場で震えて立ちすくむくらい追い込まれていた。体裁なのかマジなのかはわからないが上司が地元まではるばる引き留めに来たが、とても戻れる気はしなかった。当時お世話になった人にお礼がまだ言えていないのが心残りである。

今では当時作ったアイテムはマイナーチェンジなどされているが、自分が関わった部分がそのまま使われていたりすると、店頭で手にとってついにやけてしまう。決してメーカー自体が嫌いになったわけではない。今でも、カタログなどを見ては23歳の俺よく頑張ったわ、としみじみできる程度には客観的に感じられるようになった。

その後教育分野やフリーデザイナーの仕事をして

うつ状態で3ヶ月ほど寝たきりに近かったが、美術教師の免許を持っているので、 翌春からそれに関連する講師の仕事を始めた。当時は専門学校などでは年上の生徒がいて、完全に自信を失っている私には辛い仕事だったが、時々しか入らないのもあってなんとかやれた。

今では当時からの積み上げた実績でマーケティング、ウェブ、PC、文化などで週20コマをこなしている。

また、へっぽこながらフリーデザイナーとしても仕事をし続けている。今はデザイナーと言うよりはデザインもやれんことはないコンサルタント、みたいな感じだ。とにかく、やれることを増やして、体力や精神力を回復させるしかない。20代の全てはリハビリに費やしたようなものだった。

釣りに仕事で関わりたい

プロ釣り師になりたいわけではない。ただ、釣りに関わる仕事はもう一度チャレンジさせてほしいと思っていた。実際、10年ほどはメーカーにいた頃の夢にうなされてきた。あるいは、理想化された勤務風景の夢も見た。最近そういう夢を見る頻度はめっきり減ってきたのだが、いかに強烈な原体験だったか。悔しくて仕方がなかった。荷物を引き上げながら、落城した城主の気分はこういうものなんだろう、もはや腹を切って親に詫びるしかない、などと完全にトチ狂った思考をしていた。周囲からは、死ぬんじゃないかと真顔で心配された。

あれから10年以上経った。

教育分野、心理学的領域、ウェブ関連、マーケティング、いろんなことを自分の興味関心のままに学び、少しづつではあるが経験を積んできた。それぞれの専業でやっている人にはかなわない、自分はまだまだだ、と思うが、これらを絡めて何かを創造するという力は周囲からも徐々に評価されるようになってきた。

私は自分の仕事自体はこのまま何もしないとジリ貧だと思っている。プラスアルファを重ねる必要性を感じており、いくつかの手を打ち始めている。それは必要性のためにやることもあれば、自分の興味でやることもある。

釣りもその一つだ。若かった自分ができなかったことをもう一度トライしたいという淡い思いは実はずっとあった。しかし、「私の夢は釣りの仕事をすることです」と公言すること自体にパワーはない。「で、何ができるん?」で終わりである。それに、守秘義務の問題でメーカー時代に何をやったかを言うことはできない。

できることを増やして高めるしかない

私は受け売りだが、学生に「やりたいこと、やれること、求められていることの三要素をしっかり分析してどれをどのルートで伸ばすか決めろ」とよく言う。この理論は他の機会に詳しく書くが、「やりたいこと」だけではもたないことが多いのに、何故かこれまでの進路指導は「やりたいことはなんですか?」というスタンスであった。夢とか目標はあとから付いてくるというタイプの人にとってこれは辛いのである。

私は30代前半でやりたいことで人の事業についていって失敗している。やりたいことをぶつけ合っているだけでは盲目になるだけだった。できること、求められていることに対する感度が全く失われていき、空中分解を起こしてしまった。そのころ、この三要素の考え方を知った。

それからウェブマーケティングや留学生への職能教育に取り組み、トータルで見ると結構独自性のある人間になれたと思う。それで、いよいよできるようになったことがキーワードになり次のチャンスを開くことになる。

釣り関係のオファーが来始める

2020年に入った頃、次のステップを踏み出すことにした。大きく分けて2つ在るが、その一つが自分のやれることを活かせば釣り関係の仕事に貢献できるよ、という広報である。

詳細は順次アウトプットごとに紹介することになると思うが、単発の小さな案件もあれば、数年がかりで取り組むような案件もある。正直、メーカー在籍時に一人ではこなせなかったあらゆる領域が含まれるものもある。必要とされることの喜びを感じているところだ。

やっとやりたいことをできるようになった自分にたどり着けそう

まだアウトプットと結果が出ていないので早計だが、やっと今の自分と当時の判断を心底肯定できるようになった気がしている。

そして、自分のできることで世界的にも独自性が高く高度な日本の釣り文化を守り、また広めていくことに貢献することがライフワークになったら生きててよかったと、これも肯定できるようになれるのではないかと思っている。

好きなこと、やりたいことを、できることから叶えていく。

モバイルバージョンを終了