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時代の流れを駅きしめんで味わう

久しぶりに千種駅のきしめんを食べた。寒くなると、こういうのが食べたくなる。

さて、千種駅の立ち食いはかなり昔からこの場所で営業していて、最初に見た記憶もかなりおぼろげだ。

まだ自分が幼稚園児だったころの記憶だが、両親と名古屋のデパートに出かけた帰りに、どこかで食事をしたと思うのだが、父がまだ食べ足りなかったのか、待ち時間に一杯飲みたかったのかはおぼえていないが、電車を待っている時間に立ち食い屋に入った。寒い冬の夜だったと思う。今の店舗の前の、ステンレスの支柱むき出しのガラス張りのお店。

当然、幼稚園児から見るとカウンターがものすごく高い。とても立ったまま食事なんか出来ない。どうやら、両親はそれぞれきしめんを注文したらしい。丼を持ち、自分の高さまでしゃがんで、少し分けてもらったが、大人しかいない場に自分がいるのがなんとなく毛恥ずかしくて、「もういらない」と言って名古屋方のホームに目をやる。車内照明をつけっぱなしの回送列車、165系がゆっくりと通過していったのを覚えている。たぶん、当時走っていた急行ちくまの送り込み回送か、季節列車(確か当時は夜行急行「きそ」とか走ってた時代だ)の回送だったと思う。乗ってみたいなあと思いつつ見送った。

真っ暗な千種の掘割に、無機質な蛍光灯、縦長の短冊状のプレートに書かれた特急しなのの乗車位置を示すサイン、湯気が立つ厨房。結局やってきたスカイブルーの103系に乗って帰ったのも覚えている。多分昭和63年か、平成元年のことだ。

そして少し時は流れ、小学生の私に、父は仕事帰りに天ぷらをつまみに一杯飲むのが楽しみだったという話をしてくれた。なんだかかっけえなあと思った。大人ってあーゆーところでサクッと一杯引っ掛けてくるものなのか、と。

更にそれから時は流れ、中学生くらいの頃だ。行動範囲が広がり、ついに一人であのきしめんを食べた。父に、「あの立ち食いに行ったんだ」と話すと、「そうか。最近行ってないんだよな」と話しながら、焼酎を傾けた。

それからそんな会話をしたことを母に話すと、「お父さんね、あそこで飲んでたら会社の偉い人に『うちの会社のもんが”そんなところ”で飲むのはみっともないからやめろ』って言われて嫌な気持ちになっていくのやめちゃったんやって」とこっそり教えてくれた。それから自分なりに気を使って、そういう話題は避けるようになった。確かに当時の父は、まあ「かっちりしたイメージ」の会社で、徐々に立場も偉くなっていくところで、それはそれで大変に苦労が多かったようだった。

にしても、なんて悲しい話なんだろう、と思った。お店を馬鹿にするその「偉い人」にも腹が立ったし、そのささやかな楽しみを無碍に否定する無神経な「偉い人」にも腹が立った。なにが”そんなところ”だよ。ふざけんじゃねえ。俺はそんなおっさんにだけはなりたくない、そう思った。反抗期なりに父へのリスペクトが発現した瞬間である。

まあそれが伏線なのかどうかはさておき、サラリーマンを諦め、無職スレスレの自営業として場末の酒場や雑然とした焼肉屋みたいなところが大好きなおっさんがここにいる。赤羽の立ち飲みで出汁割を飲むのが夢である。なんだったら、東京ディズニーランドなんか行かずに、ずっと昼から出汁割飲みたい。

サラリーマン社会にも色々あると思うが、「そういう」体裁を気にして生きていかなければならないのだとしたら、私はまっぴらごめんであり、色んな意味でドロップアウトした人生を送っているし、追い込まれたとも言える。親が望んだ結末とは程遠い気はするが、そこは申し訳ない。あんなに真面目な学生生活を送っていたのに今じゃ不良中年である。

さて、ある日の仕事帰り、昼ごはんを食べそこねていたので、ふと思い立ちきしめんを食べることにした。

うまい(ストレート)

リッチに、かき揚げきしめんにビール。天ぷらに熱燗のほうが良かった気もしなくはないが、腹が減っていた。

名古屋特有の、鰹節が効きまくった出汁の香りが漂う。よく、他の地方の人に名古屋名物と言えばきしめんだよね、みたいに言われるけど、案外きしめんって食べる機会がない。自宅で作ることも稀というかスーパーであんまり売ってないし、「きしめん屋」というのもあんまり聞かない。それこそ、駅のホームで食べるものだ、という認識の人が多いのではなかろうか。

ともかく、帰りの電車が来るまで思ったより時間がない。電車の時間を意識して食べる、というのも、妙に乙なものである。なんというか、昭和の行動様式だなあと。

次に来る電車は8両編成。8両ということは、最近導入された315系かな?と思いつつ、反対のホームにやってきた315系に目をやる。

315系

中央西線って大阪環状線チックなところあるよね、鶴舞~千種の辺りとか似てるよね、みたいな話題が鉄オタの間で一部にあったりするのだが、315系もなんだか雰囲気が大阪環状線の323系に近いものがある。側壁のラッピングもオレンジ色だし。

で、315系というのは、8両編成に固定されていて、今後211系、313系を置き換えて行くことが決まっている。211系は老朽化しているのでわかるが、313系は乗り心地もよく、クロスシートで快適だったのに中央線から離脱するのは実に口惜しい。口惜しいのだが、合理的な運用を考えると315形が良いのだろう。ともかく、中央線のために設計された車両というのは381系電車以来の話なので、JR東海的に中央線に新車を設計してまで導入するという力の入れ方はそれだけのメリットがあるからなのだろう。

結局これかよ

で、やってきたのは8両編成の211系5000番代だった、というオチ。一応国鉄型なので、国鉄の匂いがムンムンする、などと言っても良いのだが、私はこの電車があまり好きではない。113系、103系、117系を中央線から押し出した上に、データイムはことごとくロングシートの3両編成という実に地味でつまらない状況を作った存在という思い出があり、ガチの国鉄ムンムン感を中央線から排除した戦犯だとすら思っていた。

ところがこの211系5000番代も、まもなく中央線の運用から離脱する。車番が若い、つまり古い車両を見ると、溶接スポットが浮き上がり、側壁が痩せていってベコベコになっている。もうそろそろ寿命が近いように見えた。思えば、この電車に初めて乗ったのは幼稚園に上がる頃だ。昭和63年。35年位走っていたことになる。そうか。だから、若い鉄道ファンはこの列車に興味を惹かれるのか。なるほどなあ、と思った。

ちなみに、まだ315系には乗ったことがない。そろそろ乗っておきたいけど、いずれ置き換えられて嫌でも乗ることになるはずだ。

節目というものを自分から意識しない限り、緩やかに時代は変わっていく。

ただ、きしめんの味は(多分)変わらず、湯気の立つ厨房のある景色は同じだ。30年前の父のささやかな楽しみに思いを馳せつつ、父のおそらく忍耐と苦労のミルフィーユだった仕事人生と、自分の高校から大学時代の記憶が詰まった211系に乗って家路についた。

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