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文学の迷路、何故かアレな小説を読む連休だった

先日、今年は文学にも興味を持とうと思う、という記事を投稿した。その後、Amazonでジョギングについてストレッチなども含めて勉強しようと検索したら、世界に冠たるAmazon様から勧められたのがジョギングはジョギングでも、ジョギングをモチーフにしたおじさん向けの小説である。どうしてこうなった。

2冊ばかりラインナップされたが順番がおかしい。それと、片方はなんで隅付き括弧なんだよ(しかし逆に考えればちょうどいい、タイトルを書くといろいろ問題がありそうだから【】と表記することにした)。それを面白がってインスタグラムに投稿したらこれまたウケた。傍迷惑にも「うちPがどっちを買うか悩んでいた」というAKI君が流布した嘘情報に敢えて乗っかって、キャンペーン価格のほうを購入した。だって後3日でキャンペーン終わるって話だったし。385円は素敵価格ではないだろうか。あとイラストも【】のほうが好みだ。本編にイラストは一切出てこないけど。

ところで、ここ数日、私は夏目漱石の「こころ」をスキマ時間に読んでいた。義務教育からエスケープしていた時期があるので、このような超基本的な古典を履修せずに中年になってしまったコンプレックスを解消しようと意気込んでいたのだが、なるほど、たしかに美しい文体だし、繊細な心情描写だ、しかしなかなか長いな、これ…。ということで、スキマ時間に読むには少々重量級であった。

一方、9割のビジネス書、自己啓発書と1割のナンセンスギャグ漫画に占められていた私のKindleアプリに組み込まれた【】のほうは、現代的で読みやすい。圧倒的に読みやすい。なんだか負けた気分だ。教養あるナイスミドルへの道は遠い。屈してしまった。

ところが、本作が妙に長編でKindleアプリで読み切るのに5時間くらいかかってしまった。この体験を無駄にしないために、以下読書感想文をしたためることにする。

「【】」を読んで

うちP

ぼくが普段走っている道はどっちかというとイノシシのほうが多いんじゃないか、と思われるようなところなので、都合が良すぎる登場人物にスナック感覚で出会えるとかすごいなと思いました。ぼくも主人公の蒼太くんみたいな勇気と行動力とそれに釣り合う都合のいい展開があったらいいのになあと思いました。

正直小学校の教員が指導する読書感想文の二重丸がもらえるアベレージなんて、要約するとこんなもんである。子どもたちが文章力を身に着けられず、そのまま成人し、やがて親になり、のループが読書感想文をつまらないものにしている。教育は国家百年の計と言うが、まさに負の国家百年の計である。そもそも教員が十分アウトプット慣れしていないから指導できないのだ。実際私は教育家として読書感想文教室を開催してプロの国語教師とタッグを組んで小中学生の添削指導をやったことがあるレベルにはこの点について問題意識をもっている。したがって上記のような感想文であれば夏休みの宿題としては及第点だがこれではプロとしては駄目だ。やり直し。

「【】」を読んで 代紋TAKE2

うちP

あなたはおっさん向け小説というものを読んだことがあるだろうか。私は、中学時代の悪友がどぎついアレコレに混じって秘蔵している小説を、”自由になれた気がした15の夜的な”お泊まり会の際に興味本位で斜め読みした程度である。その次の機会には、彼の父親が秘蔵しているはずの書籍をいみじくも回し読みするという蛮行に及んだが、よくもまあ、こんな都合の良い展開があるものだと、そしてどんな気持ちでセリフを描き下ろしているのかと不思議な気持ちになったのをなんとなく覚えている。ともかく社会人になってから約20年、自費で購入したのは今回が初めてである。

そういえば当時はキヨスクなんかにもそれっぽいものが売られていたが、時代は変わって令和、すっかりこの手のものが視界に入ることもなくなった。濃厚なイラストの扉絵は一体どこに行ってしまったんだろうと思ったら、Amazonの片隅という電脳空間の狭間に生き残っていた。それがこの【】である。

奴は突然現れた。期間限定キャンペーン価格の帯をまとい、妙に詳細なイラストの扉絵とともに。これも勉強とネタになればと、私は労働の対価として獲得したお金をいくらか差し出すことにした。お金に色はついていないとはいえ、「うちP、いつもありがとうな」と言って、決して安くないギャラを手渡してくれるお客様各位の顔が脳裏をかすめた。申し訳ございません。

さて物語は蒼太という駅伝ランナーを主人公として始まる。彼の師匠にあたる高校時代のコーチの奥さんとどうにかこうにかしてお近づきになろうとし、やがてという間もなくあれよあれよとテンポよく展開していく。平穏な滑り出しと思わせて3000文字目あたりから展開が加速するのである。なるほど、状況設定を把握したらできるだけ早く読者の期待に応えるべきだ、というのはこの手の小説のセオリーかもしれない。

なお、あらすじをつらつらと記述するのは読書感想文の基本的な悪手であり、また内容が内容なので省略する。ちなみに、タイトルすらも省略しているのは、ここを読んでいるようなアンポンタンは当然インスタグラムでその全容を把握しており【】だけで理解できるような少数精鋭のgyottosai.com読者しかいないし、そうでなくてもわざわざ知る必要もないことなので気にしなくてもよい。あと、楽屋落ちよろしく身内ネタでよく訓練されたエリートは【】だけでひと笑いできるはずである。これらはどっちかというと健全性を何より尊重するという広告主に対する配慮である。

広告主を刺激しないためにさて、本題に戻るが、私は高校時代のコーチにフォーカスした。そして同情した。というのも、彼は教え子であるはずの男子に家庭を蹂躙され精神的に乗っ取られてしまったにも拘わらず、毎週のように自宅にやってくる蒼太に対して「明日もみっちりしごいてやるから今日は早めに寝るんだぞ、ガハハ」などと偉そうに宣ってはビールをあおり、早々に寝てしまうのである。その後読者のために都合よく仕立てられたシナリオがこれでもかと展開されるとも知らずに。あまりに哀れな舞台装置に思わず感情移入してしまった。

常識的に考えて吐き気も催すような事案であるが、倫理観が我々の住む世界とは全く違うかの世界では優しい物語として紡がれていくのである。存在が地味すぎて活動家の攻撃対象とならず都合の良すぎる妄想が商品として生き残っているという奇跡。これがアニメだったら間違いなく糾弾されているだろう。あるいは凶暴化した一部の活動家は140文字を読解する能力すら欠如していたりすることは旧Twitterでもよく見られる一般的な現象なので、ある意味で活字アレルギーをブロックし多少の読解力を必要とする小説はかような表現媒体として最後の聖域かもしれない、などと妙に納得してしまう自分もいる。

そして物語はコーチ不在で進んでいく。コーチはコーチが守るべきヒロインが申し訳程度に罪悪感を持つための装置としてしか機能せず(たとえば、態度の悪いバイトが厨房で落とした使いまわしのパセリをそのままチキンステーキプレートに載せ直して客に供する際の「ま、いいや」程度のごく軽いレベルである)、メタい言及になるが作者の筆の味付けとして、主人公との関係性を燃え上がらせるために文章の所々に悪用されているに過ぎない。めちゃくちゃである。

しかしコーチは何も知らず蒼太も連れて箱根に合宿を兼ねた旅行に行くという、敵に塩を送るどころか謀反の首謀者に三食昼寝付き別注舟盛り伊勢海老付き武器貸与ボーナス4ヶ月および手前の保険金支給みたいな自殺行為に及び、物語はいよいよ壮大にして厳かで乱れたクライマックスを迎えるのである。そしてコーチは「明日もみっちりしごいてやるから今日は早めに寝るんだぞ、ガハハ」などと偉そうに宣ってはビールをあおり、早々に寝てしまうのである。コーチが寝る、というのはことごとく物語の都合上ゴーサインのトリガーとして機能する。

ここで二段落前と同じフレーズを使ったが、もはやコピペで十分だと思えるほど、コーチは愚鈍でお人好しである。ビールになにか盛られているんじゃないかとすら思う。こんなに隙だらけのコーチがなぜ今まで危険人物を自宅に招いても間違いが起こらなかったのか。

その愚鈍なコーチ以外の登場人物はその性別を問わず等しく共犯者である。もっとも、蒼太は現実世界なら慰謝料で学生生活終了確定が確実であろうと思われるが、ここはファンタジーの世界。物理的にも精神的にも家の中グッチャクチャにされたことをまだ知らない可哀想なコーチという都合の良い舞台装置はビールからの即落ちで退場したまま物語はエピローグへ。

エピローグは実に爽やかな朝の情景から始まり、蒼太は「恩師への罪悪感を消すには結果を残すことだ」とまったく理屈の通っていない悪い意味で異次元の決意を新たに、コーチ不在で罪悪感を共有する共犯者達と仲良くジョギングして物語は終わる。

一体どういうことだろうか。そうはならんやろ。お前の罪悪感ってそんな軽いのかよ。結果を残してもバレたらお前タダじゃすまんだろうが。それとマラソンの結果になんの関係があるというのか。

私は考えた。少なくとも、コーチは数年前までは明晰なコーチだったのだ。しかし、ここまでナメられ、いいようにされてしまった背景にはなにかがあったのではないか。コーチの認知能力をバグらせる何かが。「明日もみっちりしごいてやるから今日は早めに寝るんだぞ、ガハハ」と壊れたおもちゃのように放言し続ける”コーチだった何か”になってしまってもはや為すすべがないのではないだろうか。そう思うと空恐ろしい気がしてくる。ロボトミー手術だろうか。少なくとも恩師であるにも拘わらず一方的に利用される存在であり、最終的には空気である。一抹の罪悪感すら物語を盛り上げるために利用されているに過ぎない。

ふと私の日常を振り返る。出勤し、教壇に立つ。

「試験近いから勉強ちゃんとやっとくんだぞ」と言うだけのマシーンになっていやしないだろうか。生徒から見たらつまらないbotおじさんになってはいないだろうか。

別の現場ではパソコンを広げ、クライアントに対面する。

「今月も大きな動きはなかったので、現状維持で問題ないでしょう」と言うだけのマシーンになっていやしないだろうか。クライアントから見たら役立たずのbot業者になってはいないだろうか。

週末に釣りに行き、日焼けする。

「今日はエサ取りがうるさくて釣りにならんかったわ」と言うだけのマシーンになっていやしないだろうか。釣り仲間から見たら根性なしのbotアングラーになってはいないだろうか。

そういうルーチンに無自覚に突入していくことで私は誰かの物語の中のモブキャラとしての存在感を失ってやしないだろうか。あいつ一体何考えてるんだか、アホすぎるだろ、などと誰かの物語の中で揶揄されてはいないだろうか。

人間、誰しも誰かから影響を受けたり、与えたりしながら生きている。ただ改札ですれ違うだけの全くの他人ならともかく、年単位でともに時間を過ごす間柄において私は図らずも誰かの人生に何ら感動も感情への影響も与えないモブとしてただそこにいるだけで、私は本当に生きたと言えるのだろうか。コーチは生きた人間だと言えるだろうか。最近出会ういわゆるZ世代が周辺の人間をモブキャラ視しているように見える私はいよいよ、老害だろうか。

私がなにか伝えたいことがあっても響かなくなってきている、そんな気がする。年をとっただけのモブキャラとはそういうものなのだろうか。

私は誰かにとってのモブキャラとして、今日も来年のカリキュラムを編成する。そうやって人畜無害なポジションを保持し続けるおじさんである私も誰かの物語におけるモブとして埋もれていくのだろう、という諦観に迫られている今日このごろである。

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