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ドライだけど互いを尊重したいと思う私の人付き合い観

昔、ゲームのコミュニティをやっていたときもそうだったが、活動が軌道に乗ると人が集まってくる。集まってきて、どっかの閾値を超えるとトラブルとかが増え始める。結局そこで一旦フィルターが必要になり、残ったところで安定する。やがて時間経過とともに薄いつながりになり、事実上立ち消えていく。

人間関係において、そうした流れを超えて強いつながりを持つということは、なかなか出会えない相性の良さだったり、お互いに猛烈に尊敬しあえる関係性だったり、師弟関係だったり、何かしらの絆が介在するわけで、それは簡単に手に入る物ではない。おかげさまで、仕事上長い付き合いになっている人や、数名の古い友達はこういう関係性で繋がっている。が、それはレアだ。だから貴重なのだ。

あえて言語化してしまうとドライに感じられるかもしれないが、それ以外の人間関係は流動的なもので、来る者拒まず去る者追わずとはよく言ったものだ、と思う。これはP班の仲間にも普段から言っている。お互いに物理的な距離や社会的立場の変化、他に取り組むことや価値観なんて変わっていくんだから、続くか続かないかを心配することはない、と。人間関係の発展的解消は一人ひとりの挑戦と成長のためには必要なことなんだ。だから、今は今で、今を大事にできる仲間と一緒にいると楽しいと思うし、大事にしたい、と。だからその瞬間瞬間を切り取ると実は結構ウェットなのだが。

仲間は価値観を共有できコミュニケーションコストという摩擦係数の少ない少数がいればいい

その一方で、私は「話が合わなくなったと思ったらすぐに人を切り捨てる」と評されているそうだ。

そうだよ(即答)。

それこそ仕事上でもできればそうしたいと思っている。実際近年はそういう方向で動いているし、その結果良好な業績に貢献する機会が増えて笑顔になる人が増えている。ましてやプライベートの友人関係なんて、お互いにお互いの快適性を追求した結果でマッチングするのが当然ではないのか。こっちが一方的にコストを負担している(と思ってしまう)ような関係は不健全でしかない。友人というのはコミュニケーションコストが低くてお互いに楽であることが結構重要なのだが、それを成立させるためにどちらかが必死に合わせないといけないというのはストレスとトラブルのもとでしかない。ここまで言語化しないとわからん話なのか、というのはさておき。

もちろんそれはそのままブーメランであり、私に向けても同じことが言えるわけで、実際、私が仲良くなりたいと思った相手に相手にされなくなったと感じることは一度や二度ではない。だけどそれは仕方がないことなのだ。あっちからしたら、関わるメリットがないと思われてしまったのだ。私が未熟だったり、貧乏だったり、感じが悪かったり、頭が悪かったり、性格が悪かったのだ。仕方ない。そうやって受け入れていくしかない。言ってしまえば、モテないのを人のせいにするのは良くない。だからフラレても追いかけてはいけない。

価値観が合わない人たちが結婚しても性格の不一致でお互い不幸になるのと同じだ。ここまでシンプルにまとめれば伝わるのかな?しらんけど。

そのかわり、うまくマッチングできた仲間に対してはとにかく自分ができる限り気にするし、うまくいくことを願うし、一緒に飯食ったりして色んな話をしたいと思う。最初にも書いたが、あらゆる試練をともに越えてきた仲間が貴重な存在だからこそ、あらゆるコストを費やすのであり、そうでないところに世間体のために振り分ける余裕なんてないのだ。おそらく、私を相手にしなかった人たちもみんな優しいから言葉にはしないが、そういう行動原理が働いていて、私を切り離した。だからそれはそれでいい。

正直言って、そうした切り分けを受け入れずなんとなくヘラヘラしていることは自分の態度を保留して本質に関わることを忌避しているのであり、ダサいからやりたくない。それは「どっちでもいい、どうでもいい」相手にしか通用しない態度だからだ。

「人間関係は負債」というドキッとする過激論

ところで、与沢翼氏の著作によると、人間関係や人脈を広げようとするとそれは負債になって自分を苦しめる、という。実は本記事に書いてきたような内容と、人間関係負債論は驚くほど似通っていて、かの本を読んだときに合点がいった。与沢翼氏に対する世間「一般」のイメージは決して良くはないだろうし、私も今のところよくわからない、という見方をしているが、その本はある意味での反省文であり、結構納得させられることが多かった。

「人脈を重要視するという考え方は他人を金儲けの道具と見ている」「人が少し集まれば醜い感情が露呈する」「他人から受け取る善意は高くつく」

このあたり、実は共感できる人もいるのではないか。

集まることが目的化した場というのは、酷く退屈であり、リスク要素でもある。そしてそこから離脱したらしたで、自分が誰かと誰かによる放談のネタとして消費され、時には風評被害に発展する。地道に色々頑張って本当の仕事仲間に囲まれている今やそのようなことは怖くないが、そういうものなんだ、と諦めの境地にならざるを得ない。

異業種交流会とかをはしごしたこともあったが、今では全く興味がない。保険と占いと宗教とウォーターサーバーの勧誘をいちいち聞いてやって、恭しくも断る暇なんかないのである。

だから私は、集まることは、手段として考えたいと思う。

しつこいようだが、もちろん私もそうやってジャッジされる側でもある。最終的に孤立して村外れの狂人になるシナリオだって常にありえるわけだ。自らを律していかねば。

読解力が足りないと「人を無視していい」「人を大事にしなくていい」と解釈されるのだろう(諦め)

どうせわからん人にはわからん。

少数の仲間はあなたを形作る

一見人とのつながりを大事に、みたいな言動が目立つ人ほど、私は信用しない。人の影響力や能力を利用する魂胆であることも少なくないからだ。ところが表面的にはそれが正しいことであるかのように振る舞う。

その人が信用できるかを見るには、深い関係性にあるコアな仲間たちがどんな人達であるか、を見れば良いと思う。その人の周りの5人の平均がその人のパーソナリティを表す、というが、まさにそれである。

だから仲間は大切なのだ。負債にしてはいけない。だからお互いに尊敬できる、成長できる関係が必要なのだ、と思う。

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